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稲石の上布
  今の宮古織物事業協同組合の建物に隣接して宮古神社がある。 境内石側に平良市指定有形文化財の「産業界之恩人記念碑」が建っている。大正14年7月に宮古神社が建立された際、 宮古の産業界の基礎をつくった下地親雲上恵根(植林)、砂川親雲上旨屋(サツマイモ)、稲石(上布織製)の三者を顕 彰して建立されたものである。さらに社殿に向かって左側には、稲石をたたえる碑が建てられている。 稲石は1583年(万暦13)綾錆布を創製して琉球王国に献上、宮古上布織製の端を開いた人物として、下地町洲鎌の「真屋御獄」に祀られているが、稲石の献上布のいきさつについては次の通りである。
 
  いまから400年前もの昔、琉球の進貢船が台風に遭い沈没寸前となった。そこにちょうど乗り合わせていた宮古の洲鎌与人・真栄という男が勇敢にも荒れ狂う海に飛び込み、船の故障をなおして乗組員全員の命を救った。このことが琉球王の耳 に入り、王はこの功績を讃えて真栄を間切頭主として任命した。妻の稲石はそのことを大いに喜び、心を込めて綾錆布を織 り王に献上した。これが宮古上布の世に出るきっかけとなった。綾錆布とは、大名縞の紺細上布で苧麻の原料に染色を施し、長さ11.4m 幅40cm19ヨミの細目布であったという。
 
 
人頭税と貢布
  1609年に薩摩に制圧されてからは様々な税が制定され、1637年からは人頭税が課せられました。人頭税下の貢反布は 、役人の厳しい監督のもとに作られ、村の中の織女から上手な織り手を選び貢布制作を命じた。選ばれたものは、1年中の緒 課役を免除されて、ひたすら上布を織り上げるのである。上布を織り上げるまでの数ヶ月間は織女にとってまさに骨身をけず る苦労であった。上布の品質の善し悪しは役人の成績に大きくかかわるため役人の監督、要求は厳しくなる。織り手達の肉は 落ち、顔は青ざめ
て毛髪は抜け落ちたと言われている。
  20ヨミ、19ヨミという精巧な紺細上布を美しく仕上げるためには、原料の苧麻の選定から始まって、クモの糸ほどの細い糸 を紡ぐ高度の技術を持った紡ぎ手、藍屋染色技術、絣締め等、一連の熟練した手を全部揃えなければならない。
これらの技術が 統合されて初めて、芸術品ともいうべき細物の紺細上布ができる。
<人頭税とは>
男女15歳以上50歳までの人を対象に、人頭税石の高さ(143cm)より背が高くなると男は粟を女は宮古上布の納付が義務づけられました。 人頭税石はその重税の名残です。
最盛期の宮古上布
  人頭税廃止運動後、1903年に悪名高い人頭税は廃止され上布は自由生産、自由販売品となりました。 厳重な監督下で製織された宮古上布は薩摩上布としてその名を知られ製織技術は、一層精微になり、国内における麻織物の最高品として名声を得ていた為、早くから寄留商人に注目されていました。貢布座での厳しい検査がなくなって自由生産に入れば、
上布 は粗製濫造が多くなって品質がお落ち、市場性も落ちるおそれがあるとし、明治35年12月、上布生産者で織物組合を組織し翌36年3月がら織物検査を始め品質の保持につとめた。
宮古上布生産量は大正から昭和12年頃までが隆盛期で、年間生産量は1万反を越えた。昭和11年頃の上布1反の値は100円~120円で、当時の高給取りの月額は6,70円である。一般の労働賃金よりも上布の仕事の手間賃が高く、娘3人いれば家が 建つと言われたほど、収入のよい仕事であった。
この宮古上布の移出先は大阪が最も多く全体の64%を占め、ついで京都24%、東京9%、鹿児島4%となっている。

戦後の宮古上布
  終戦直後の1946年5月、宮古織物業組合が設立されました。戦前、上布生産に携わっていた人達が中心になって組織したもので 主な事業内容は、
(1)検査事業・・・製品並に原料糸の検査
(2)供給事業・・・原料並みに染料の購入供給
(3)指導事業・・・組合員を対象にした講話並に実技指導
等で事務所を個人宅においてスタートした。その後、織物組合は全郡的な規模で組織した方が宮古産業復興につながるという考えから 郡内市村が協議して1948年10月「保証責任宮古織物工業組合」を設立した。
上布生産はようやく息を吹き返したが、生産量はわずかなものでした。 第一原料の苧麻が不足していました。島内産では間に合わないので八重山から買い入れ、さらに台湾から輸入しなければならなかった。 ところが当時は台湾産の苧麻が入らず、本土業者から大量の注文があっても、それに応じるだけの生産量がなかった。この時の、年間 生産反数は約
300反、値段はB円で2,000円くらいでした。
1952年の生産量は2,064反、翌53年は1,448反と生産量は伸びましたが、その後は急落しました。

現在の宮古上布

  現在の宮古上布は年間生産反数約20反で組合員は82名(平成18年9月現在) となっている。昭和27年の2,064反をピークに生産反数は減少し続け、平成14年には10反にまで落ちた。もはや風前の灯火となって宮古上布に大きな危機感を持った行政は織物組合の再建委員会を設立、様々な提案を織物組合に示した。それに基づいて、宮古織物 事業協同組合は組織の立て直しを図り後継者育成事業の見直しに取り組み、平成16年、17年には20反の生産反数まで回復した。
又、平成12年に新規格を設け、これまでの十字絣紺上布だけでなく草木染や太い苧麻糸を使った帯地なども宮古上布に加え組合に おいて検査を実施し検査証の添付を行っている。宮古上布は分業体制で生産が行われる為、各工程での後継者育成事業の取り組みが不可 欠である。特に糸づくりに関しては従事者の高齢化が大きな問題であり若手従事者
の育成が急務となっている。組織の立て直し以降は織 物組合と行政の様々な取り組みの成果として、宮古島全体の宮古上布への関心と認識が高まり若手従事者が増え組合員も増加、各工程の 後継者の育成も行われている。
今後の課題は若手従事者の定着化と販路の拡大、従事者生活の安定化等様々あるが、最大の課題は原 材料の確保である。苧麻の栽培から糸績み、絣締め、絣締め、染め、砧打ちの全行程を宮古島で一貫して行う生産体制は維持し 宮古上布の品の保持に努めている。

 
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